任天堂の赤い汚点「バーチャルボーイ」、早急な製品開発が失敗を誘引
今回取り上げる「バーチャルボーイ(Virtual Boy)」は、任天堂の携帯型ゲーム機として、最も革新的な機種になるはずだった。「真の3次元(3D)グラフィックス」をコンセプトにした機種で、プレーヤを仮想世界(バーチャル・リアリティ)にいざない、既存のテレビ・ゲーム機では実現できない体験を提供するとうたっていた。1995年に日本と北米地域で発売されたものの、現在では同社の歴代ゲーム機の中で厄介者として、主流ではない補足的な位置付けになっている。
仮想現実の実現目指す
バーチャルボーイの開発の歴史は、1990年代の初頭にさかのぼる。任天堂のゲーム機開発者である横井軍平氏は、「ゲームボーイ(Game Boy)」の目覚ましい成功によって、携帯型ゲーム機業界で高い評価を受けていた。彼なら何をやっても失敗するはずがないと判断した同社の経営陣は、「鉄は熱いうちに打て」ということわざ通りに、新しいプロジェクトを立ち上げて同氏に一任した。これが、3次元空間でのバーチャル・リアリティを体験可能なゲーム機の開発を目指した「VR-32プロジェクト」である。携帯型ゲーム機のファン拡大を狙ったプロジェクトだった。
ゲーム機の開発は1991年に始まった。同氏は、60人の設計者で構成した開発チームを率いて、米Reflection Technology社の光学装置の設計者とともに開発を進めることになった。しかし、開発の途中でVR-32プロジェクトの情報が外部に漏れる予想外の事態となった。任天堂のゲーム・ファンの期待は、またたく間に最高潮に達した。これを受けて、同社の経営陣は開発を前倒しで進めるように横井氏へ圧力をかけ始めた。
こうした経緯を考えれば、同社の製品を扱う流通関連企業で構成された団体「初心会」の1994年の会合でバーチャルボーイが初めて公開された際に、評論家やファンががっかりしたのも無理はないだろう。なぜなら、ゲーム機本体とともに公開されたゲームの映像は地味で、黒色の背景に対して1色(赤色)の表示というモノクロ画面だったからだ。
それでも同社は、1995年7月に日本で、その1カ月後には北米地域でバーチャルボーイの販売を開始した。しかし、熱狂的なゲーム・ファンは、バーチャルボーイは技術的に不十分だと批判し、しかもゲームボーイ向けゲーム・ソフトのタイトル数に比べて、バーチャルボーイに対応したゲーム・ソフトの本数が少なすぎると不満をあらわにした。結局、バーチャルボーイの出荷台数は80万台にとどまった。一部には、77万台とさらに低く推定した調査もあったほどだ。販売開始から約1年後、同社はバーチャルボーイの販売を中止し、その歴史にひっそりと幕を下ろした。バーチャルボーイが惨敗に終わったことで、非難の矛先は開発者の横井氏に向けられた。
赤色LEDのみを使用
バーチャルボーイは、ゲームのコントローラと映像表示装置(本体)の2つで構成されている(図1、図2)。映像表示装置に収められていたのは、Reflection Technology社が開発した、2つの赤色LEDディスプレイだった。いや、ディスプレイと呼ぶには語弊があるかもしれない。高解像度ディスプレイに見えるが、実際には、左目と右目にそれぞれ対応した2本のLEDアレイだった。LEDアレイは、224個のLEDを一列に並べたものだ。
図1 LEDディスプレイの制御は、NECエレクトロニクスの「V810」マイコンが担当
映像表示装置に搭載されたプリント基板には、NECエレクトロニクスの32ビット・マイコンのほか、東芝のDRAMやシャープの疑似SRAM、米Texas Instruments社のインバータICなどが実装されている。
さらに、平面振動ミラーが2つ搭載されており、これを使ってLEDアレイの出力光をそれぞれの目の視野の端から端まで走査する。このミラーは高速で振動する。従って、映像表示装置に備え付けられたアイピース(ゴーグル)を通して映像を見ると、それぞれの目に向けた映像が重ね合わされて3D映像が見える。
バーチャルボーイがモノクロ表示だったのは、赤色LEDのみを搭載していたためである。フルカラー化については、十分に検討されなかったようだ。その理由の1つとして、開発チームが満足できるほど、高効率かつ高性能な緑色LEDと青色LEDが当時は見つからなかったことが挙げられる。このほか、緑色LEDと青色LEDを搭載した場合、企業として許容できないレベルまで製造コストが上昇してしまうことも、フルカラー化を断念した理由だった。
LEDディスプレイは、本体上部に取り付けられたプリント基板に実装された半導体チップで制御されている。制御を主に担うのは、「μPD70732」という型番が刻印された、NECエレクトロニクス(当時NEC)の「V810」マイコンである。このマイコンは、組み込み用途に向けたV810ファミリとして、最初に発売した品種である。優れたリアルタイム性能に加えて、高速な整数演算機能や浮動小数点演算機能を備えていることを特徴とする、32ビットRISC型アーキテクチャを採用している。さらに、アドレス・バスとデータ・バスを分離した32ビット・バスや、1Kバイトのキャッシュ・メモリーなどを備える。パッケージは120端子QFPである。
本体のプリント基板に搭載されている半導体チップの中で注目すべきものとしては、このほか次の3つがある。1つ目は、東芝の1MビットDRAM「TC511664BJ-80」で、パッケージは40端子SOJ。2つ目は、シャープの512Kビット疑似SRAM「LH5P1632N-70Y」で、パッケージは40端子SOJ。3つ目は、米Texas Instruments社の6回路入りインバータIC「57AOY5K」である。メモリーのデータ・シートを見ると、現在ではこれらがどれほど旧世代の品種かがよく分かる。どちらのデータ・シートにも、最先端技術としてシリコン(Si)材料を使ったCMOS技術を用いて製造していることが特徴として記載されているからだ。
発売を急ぎ過ぎた
任天堂には、同社の機種を愛してやまない熱狂的なファンがいる。バーチャルボーイがこうしたファンにさえも受け入れられなかった背景には、いくつかの理由がある。1995年当時、同社は携帯型ゲーム機市場でほぼ一人勝ちの状態だったことを思い出してほしい。セガ・エンタープライゼス(現在のセガ)が1992年に発売した「ゲームギア(Game Gear)」や、NECホームエレクトロニクスが1990年に発売した「ターボエクスプレス(Turbo Express。国内では『PCエンジンGT』)」の市場シェアは、携帯型ゲーム機全体の10%以下と小さかった。
任天堂の人気は非常に高かったため、マーケティング活動をほとんどしなかったのにもかかわらず、バーチャルボーイには過剰な期待が寄せられた。バーチャル・リアリティが体験できるという前評判だけで、同社の多くのファンがこの携帯型ゲーム機が秘める可能性に魅せられた。しかし、これこそが問題だった。新しいゲーム機が一体どれほど素晴らしいのか、同社の過去の機種によって築かれた確かな実績を基にファンの期待は非常に高まり、まさに完璧な製品だけしか受け入れられない状況ができあがってしまっていたのである。
バーチャルボーイが失敗に終わったもう1つの理由は、発売を急ぎ過ぎたことにある。ファンの熱意と、情報流出後の任天堂経営陣による性急な判断によって、横井氏が率いた開発チームは、製品が最高の状態に熟成するのを待たずに、発売に踏み切らざるを得なかった。同氏は、バーチャルボーイの完成像に対して壮大なビジョンを描いていたものの、実際に発売したものは同氏の合格点をはるかに下回る完成度だった。
魅力的なゲーム・ソフトが無かったこともファンの支持が得られなかった理由である。同社がこれまでに発売したゲーム機には必ず、ゲーム機の性能を生かしたゲーム・ソフトが用意された。こうしたゲーム・ソフトは、長い時間をかけて開発され、難解だが興味をそそる内容が売りだった。例えば、同社が独自に開発したオリジナルのゲーム・ソフトには、「スーパーマリオブラザーズ」や「ダックハント」などがある。ゲームボーイには「テトリス」、スーパーファミコン(Super Nintendo)には「スーパーマリオワールド」があった。
一方で、バーチャルボーイ向け第1弾として発売されたゲーム・ソフトには、「マリオズテニス」や「レッドアラーム」、「テレロボクサー」、「ギャラクティックピンボール」などがあったものの、どれも印象は薄い。しかも、3D映像に本格的に対応していたのは「テレロボクサー」の1本だけだった。最終的に、バーチャルボーイ向けに発売された専用ゲーム・ソフトは22本だけで、そのうち北米で販売されたのはわずか14本にとどまった。
大きな成功は小さな一歩から
バーチャルボーイの販売中止を最終的に決定づけたのは、一部のユーザーから寄せられたクレームだった。それは、長時間にわたってゲームを続けると吐き気をもよおすというものだった。赤色LEDで表示したディスプレイと、3D映像を作り出す背景画像の動きによって、一部のユーザーに乗り物酔いに似た症状が出たという。この事実は、バーチャルボーイを完成させようと、開発を急いで終了させたことを裏付けるさらなる証拠となった。開発段階で厳密な市場テストを実施していれば、一部のユーザーに対して悪影響を与える恐れがあることは、発売前に明らかになっていたはずだ。任天堂の名誉のために付け加えると、同社はその後、この失敗からすぐに立ち直った。関連企業やファンを待たせることになっても、研究開発や製品試験は時間をかけて正確にすべきだということを、この経験から学んだのだ。
同社の上層部は、技術革新にはリスクが伴うという考え方を失わなかった。事実、視野を広げようとする継続的な取り組みは最終的に、世界市場で大成功を収めたゲーム機「Wii」の開発に結び付いた。どれほど大きな成功でも、最初は小さな一歩から始まるということを歴史は物語っている。
【著者プロフィール】
Allan Yogasingam氏は、米TechInsights社が運営するウェブサイト「TechOnLine」のシニア・テクノロジ・アナリストである。プロダクト・マネージャを兼任している。
【EE Times Japan 2009年6月号「Tear Down」、pp.39~41 掲載記事】
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