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厚き量産の壁、リソースの不足で花が開かなかった技術イノベーションは日本を救うのか 〜シリコンバレー最前線に見るヒント〜(17)(2/3 ページ)

さまざまな技術がしのぎを削ってきたディスプレイ業界。初期は酷評されたLCD(液晶ディスプレイ)は、世界中の何千人というエンジニアが開発に関わり、不良をつぶしていったことで大きく花開いた。だがその陰で、十分なリソースをかけられず、量産化の壁を乗り越えられなかった技術も存在する。

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日本人技術者をリクルート

 WADTから相談を受けたAZCAは、1999年から、同社が日本企業と提携するためのプロジェクトを行うこととなった。

 ここで、キーパーソンとなる人物がいる。1人は、パナソニックでプラズマディスプレイの開発を手掛けていた和迩浩一(わに・こういち)氏だ。われわれは、当時、プラズマディスプレイの開発が一段落していた和迩氏をリクルートした。和迩氏は、次のチャレンジを求めて家族とともにトロントに渡り、TDELの開発に着手し始めたのである。もう1人は、無機ELでは日本の第一人者であり、青色発光素子の高効率化で知られる、明治大学大学院理工学研究科の准教授 三浦登氏だ。三浦氏は、TDELの開発アドバイザーとしてわれわれのプロジェクト期間中、力を貸してくれた。

 ところで、2000年ごろ、WADTは社名を変更した。理由は単純で、「WADT」はちょっと読みにくく、覚えにくいからだ。新しい社名を筆者も一緒になって検討し、WADT改め「iFire Technology(アイファイア・テクノロジー)」(以下、iFire)となった。

大手メーカーが興味を示すも、厚い量産化の壁

 筆者らは今回も、iFireの提携先を求めて、TDK、大日本印刷(以下、DNP)、三洋電機、その他多くのディスプレイの開発を手掛けていたメーカーを訪ね歩いた。

 各種FPDの開発が盛んだった時期という機運にも恵まれたためか、複数のメーカーがiFireに興味を示した。実は、無機ELディスプレイは特に新しい技術というわけではなかった。ほこりに強くて頑丈なので、工場で装置に搭載されたり、救急車に搭載されたりといった用途で使われていた。ただ、これらの製品の画面はモノクロで、iFireが試作したような、CRTディスプレイ並みのフルカラーを実現したものは、市場にはまだ存在していなかった。そのため、堅ろう性とフルカラーを両方備えたiFireのTDELディスプレイの技術は、関係各社の目を引いたのである。

 例えばTDKは2000年、iFireと提携することで、無機EL FPDの市場に参入することとなった。TDKが、iFireの株式2.5%を保有するための750万米ドルを含め、総額2500万米ドルをiFireに投資したことは、米国EE Timesの当時の記事にも掲載されている。


TDELディスプレイの一例 出典:DNP

 TDKの他に、DNPもiFireに大きな関心を持ってくれた。DNPは2003年3月からiFireと大型TDELディスプレイの共同開発を初めていた。紙媒体市場の飽和を当時から察知していたDNPは、エレクトロニクス関連の事業を伸ばそうとしていたのだ。2004年2月には、量産化の検討を進めるべく、iFireのパイロット生産ライン増設に対して1000万米ドルの融資契約を締結すると発表した。

 筆者は2003年3月、iFireの事業開発担当上席副社長の肩書を持たされ、それ以降もさらにTDELを日本に普及すべく大いに努力した。

 さて、こうしてiFireは、最初の商品プロトタイプである8.5型に次いで、17型、34型のTDELディスプレイを開発した。ただ、iFireはここで行き詰まってしまった。34型のTDELディスプレイは、プロトタイプこそうまくいったものの、量産レベルで何万台、何十万台と製造できる水準には、なかなか到達できなかったのである。量産に求められるエンジニアリング力は、プロトタイプに求められるそれとは、まったく異なる。読者の皆さんには釈迦に説法であるが、この水準を超えられるかが、モノになるかどうかの分かれ道なのだ。

 そして、iFireの34型TDELディスプレイは、ここを乗り越えることができなかったのである。

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