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近代科学の創始者たちに、研究不正の疑いあり(ニュートン編)研究開発のダークサイド(6)(1/2 ページ)

西欧の近代科学における不正疑惑の代表が、アイザック・ニュートンによる著作の改ざん疑惑である。今回は、研究不正に関する2冊の著名な書籍から、ニュートンの不正疑惑に触れた部分を紹介したい。

» 2017年03月08日 11時30分 公開
[福田昭EE Times Japan]

近代科学の巨人「ニュートン」の研究不正疑惑

 16世紀〜17世紀の西欧で近代科学が始まった時代には既に、現代では研究不正と疑われる行為が存在していた。本稿の前編では、19世紀初頭の高名な数学者チャールズ・バベッジ(Charles Babbage)が1830年に定義した研究不正(欺瞞)行為をご報告した。前編の文章を一部再掲しよう。

 「バベッジは論文の中で、「欺瞞(Fraud)」と呼べる行為を4種類に分類してみせた。「ホウクシング(いたずら)」「フォージング(捏造)」「トリミング」「クッキング」である。現代の定義(捏造、改竄[かいざん]、盗用)に照らし合わせて見ると、バベッジの分類で後者の3つが研究不正に相当しており、なおかつ「トリミング」と「クッキング」は実験データの改竄行為をさらに区分けしたものだと分かる」

 西欧の近代科学に対する後世の検証作業は、当時の科学研究における、いくつかの不正疑惑を指摘している。その代表が、17世紀後半から18世紀にかけて科学史上で最も偉大な業績を残した近代科学の巨人「アイザック・ニュートン(Issac Newton)」(グレゴリオ暦1643年生〜1727年没)による著作の改ざん疑惑だ。

 ニュートンは、「古典力学(別名:ニュートン力学)」に関する大著「Philosophiae Naturalis Principia Mathematica(自然哲学の数学的諸原理、「プリンキピア」とも呼ばれる)」を1687年に発刊した。「プリンキピア」は、初版の刊行から26年後の1713年に第二版を刊行した。最終版である第三版はさらに13年後の1726年に刊行された。「プリンキピア」は近代科学における最大の名著とまで評価されているのだが、一方で、研究不正の歴史を語るときには、外せない書物となってしまっている。

 研究不正に関する著名な書籍、『背信の科学者たち(ウイリアム・ブロード、ニコラス・ウェイド共著、牧野賢治訳、1988年)』と、『科学の罠(アレクサンダー・コーン著、酒井シヅ、三浦雅弘訳、1990年)』はともに、この「プリンキピア」を取り上げてニュートンの不正疑惑を論じた。本稿ではこれら2冊の著作から、ニュートンに関する部分をご紹介したい。

「プリンキピア(自然哲学の数学的諸原理)」の概要。参考:和田純夫、『プリンキピアを読む』、講談社ブルーバックス、2009年(クリックで拡大)

『背信の科学者たち』が言及するニュートンのダークサイド

 『背信の科学者たち』は、3種類の訳書がこれまでに刊行されている。初めは、化学同人によって1988年に出版された(本稿では「化学同人版」と呼ぶ)。さらに2006年に講談社がブルーバックスシリーズとして再出版した(本稿では「ブルーバックス版」と呼ぶ)。化学同人版とブルーバックス版はいずれも絶版となっており、現在では入手が難しい。

 入手が容易なのは2014年に講談社が出版した改訂追補版の『背信の科学者たち』(本稿では「講談社版」と呼ぶ)である。そこで本稿では、「講談社版」に沿って概要をご紹介する。

 ニュートンの疑惑に関する記述があるのは、第2章「歴史の中の虚偽」(33ページ〜56ページ)の42ページから44ページである。第2章「歴史の中の虚偽」は、近代科学の黎明期においては、実験データを軽視する傾向と、理論に合致するように実験データを操作する傾向が見られることを指摘していた。その上でニュートンに関する記述の最初の一文は、このように始まっている。「データへの曖昧な態度は、アイザック・ニュートンの研究において頂点に達した」(42ページ)。

 そして「プリンキピア」では、「実際の結果が彼(筆者注:ニュートンのこと)の理論を支持しない時には、しばしば偽りのデータで自分の主張を補強していた」(42ページ)とする。さらに1713年に発刊した「プリンキピア 第二版」では「「プリンキピア」をより説得力あるものにするため、……(中略)……歴史学者のリチャード・S・ウェストフォールによると、ニュートンは音速や春分点の歳差運動に関する自分の計算を“修正”しさらに万有引力の理論の中のある変数の相関関係を理論と合致させるように改めた」(42ページ)。

 また研究不正ではないが、ニュートンが論敵を排除するためには権力を活用するタイプの人物であったことを『背信の科学者たち』は指摘する。研究者同士が論争したり、誰が発見者かを巡って争ったりすること(先取り権争い)は、決して珍しくない。ニュートンは、イングランドの科学者団体であるロイヤルソ・サイエティ(王立協会)の会長を努めており、科学コミュニティーにおける権力者だった。

 ニュートンはドイツを代表する数学者ゴットフリート・ライプニッツ(1646年生〜1716年没)としばしば対立しており、特に微積分の発見に関してはニュートンとライプニッツは先取り権を巡って激しく争った。ニュートンは王立協会の会長という立場を利用してライプニッツを盗用で告発したという(44ページ)。現在では両者は独立に微積分の発見に至ったと考えられている。

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