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» 2017年08月16日 11時30分 公開

世界を「数字」で回してみよう(42) 働き方改革(2):「非正規雇用」の問題は、「国家滅亡に至る病」である (6/11)

[江端智一,EE Times Japan]

悪質な方向で乱用される「能力」という言葉

 というか、ぶっちゃけ「能力」は、もっと悪質な方向で乱用される傾向があります

 「能力」は客観的に判定できないので、結果的に勤続年数が長ければ潜在能力が高まっていると考えられる「年功制」を正当化する理論としても利用されました。

 さらに、「男女雇用機会均等法」施行(1985年)以前においては、女性の職種が、かなり露骨に制限されていました。その結果、必要な職業に対する「能力」の違いが生じるから、賃金の男女格差は「仕方がない」というロジックとしても使われてきました。

 とどめは、これは非正規社員との均等待遇問題においても、正社員の賃金が高く、非正規社員の賃金が低いのは、その「能力」にそれだけの格差があるからである、という“へ理屈”で乱用されています。

 しかも、その「能力」の評価は、多くの場合、仕事の成果にさかのぼるものにはなっていません。そもそも、仕事というのは複雑な人間の相互作用によって達成されるものであり、その利益を定量的に測定することは、絶望的に難しい ―― というか不可能です。

 つまるところ、私たちが日常的に使っている「能力」なるものは、『(利益を生み出しているかどうかは分からんが)一生懸命やっている』とか、『(何をどう説明すれば良いのかよく分からないんだけど)あいつはできるやつだ』とかいう言葉で語られる ―― 要するに、なんだか良く分からないものなのです。

 さて、この「能力」の話を、前述の「(A)同一労働、同一賃金の実現」という話とリンクさせてみたいと思います。

 そもそも「同一労働」とは何か、ということになります。多分、90年前の「臨時工」や、戦後のマルクス主義的な労働価値観においては、「同一労働」とは、製造ラインで流れ作業のように働いている労働者をイメージして、その「同一労働」を観念できたのかもしれません。

 しかし、ここ30年間だけ見ても、そのような「同一労働」をイメージできる労働が姿を消していることは、明らかです。

 下記は、私が執筆している別連載の記事「Over the AI ―― AIの向こう側に(10):外交する人工知能 〜 理想的な国境を、超空間の中に作る」から抜粋したものです。

 日本は全体として「ソフト/サービス産業」に大きくかじを取っており、そのような産業において「同一労働」という概念は、基本的に観念し得ないのです。

 ならば「同一労働」とは、「職種」という枠組みで考えれば良いという方もいるかもしれませんが、その考え方には無理があります。

 例えば、プログラマーは、ひたすらプログラムを書くのが仕事ですが、私たちIT業界では、そのプログラマーによって「プログラムの品質が10〜100倍も違う」などということは、ザラにあります*)

*)「今回のソフト外注は、大当たりだったー!」とか言って喜びます。

 しかも、その10〜100倍の判断は、そのプログラムの本質を理解できるウルトラスーパーエンジニア(例えば、この私)でなければできません。しかし、こんな判断基準など、著しく客観性を欠き、到底、定量的な評価と呼べるものではありません。

 しかし、それでも「同一労働」を計測しろと言われれば、出来上がった製品の品質から逆算するしかありません。例えば、プログラムの実行速度、処理能力、インタフェースの見栄え、使いやすさなど、その項目は数え上げれば切りがありません。

 しかし、そのような方法による「同一労働」の計算は、その評価計算する人の人件費で、もう1本システムを発注できるくらいコストが掛かりそうです。しかも、それが正確な計算結果であるという保証もありません。

 つまり「同一労働」とは、結局のところ上記の、まったく何がなんだか分からない「能力」なるものを加味して、極めて主観的に規定するしかないのです(そんでもって、多分ここには、人柄とかあいさつとか(飲み会の)付き合いとか、訳の分からんものも入ってくるんですよ、腹立たしいことに)

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