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「頭脳流出」から「頭脳循環」の時代へ、日本は“置き去り”なのかイノベーションは日本を救うのか(30)(3/4 ページ)

» 2018年12月20日 09時30分 公開
[石井正純(AZCA)EE Times Japan]

シリコンバレーで起業したい! 挑戦する日本人たち

 さらに、初めから起業家精神が旺盛で、日本でベンチャーを興こしたが、シリコンバレーにも拠点を作り、そこをベースにグローバルで事業拡大を目指そうという人たちもいる。本連載の前回「変わり始めた日本のベンチャー、グローバル展開は射程に」で紹介したVALUENEXの中村達生氏などは、そのよい例だ(ちなみに同社は2018年10月31日に東証マザーズに上場したばかりだ)。VALUENEXの場合は日本で立ち上げたベンチャーが軌道に乗ってきた時点でシリコンバレーに新たに会社を作り(その後、日本の本社の子会社化)、創業社長の中村氏は日米(最近は欧州も)を行ったり来たりしている。ちなみに、米国人でなくともシリコンバレーに会社を設立すること自体は可能だ。

 また、シリコンバレーで起業とまではいかなくとも、とにかくイノベーションや技術開発のメッカであるシリコンバレーで技術開発やりたいというエンジニアたちもいる。この人たちも日本での起業経験を持っている場合が多い。つまり、伝統的な企業勤めやサラリーマン生活にはほとんど関心がなく、一人でもよいから本当に自分のやりたいことをやろうと、シリコンバレーに渡ってきた人たちなのだ。この場合、一番のハードルは就労ビザ取得である。特に、現トランプ政権になってからは、「H1-B」という就労ビザを取得するのが以前に比べてかなり厳しくなっている。

 さて、筆者はつい最近そのような人材と会い、いろいろと話を聞く機会があった。

 現在、Google のATAP(Advanced Technology and Projects)という部門で、「SOLI」というプロジェクトに携わっている山中仁(じん)氏だ。

 彼は高校性の時、ロボットにハマった。1994年には「本格的にやってみたいロボットに一番近いことをやっていた」という理由もあって東京工業大学の制御工学科に入学。早速、ロボット技術研究会に入った。1996年には、NHKが英国のケンブリッジ大学で主催したロボットコンテストで、ケンブリッジ大学(イギリス)とドイツのダルムシュタット工科大学(ドイツ)の学生とチームを組み、見事優勝を手にしている。

 「本当に楽しかった。それが、渡米することになった原体験だった」と山中氏は語る。

 とにかく、彼はモノづくりが楽しくてどうしようもなかったそうだ。卒業後は京セラに入社し、イリジウム(衛星携帯電話)のプロジェクトに携わった。仕事自体はとても楽しかったのだが、半年で退職し、高校時代の友人が立ち上げたソフトウェア開発会社「ディノ」を手伝うべく、そこに加わった。

 当時の日本は、著名な大企業に入るか大学に残るかという二択しか考えないのが、まだまだ多かった時代だ。

 ディノで働き始めて2年半後、今度は3人で起業する。「Upstairs」というコワーキングスペースを手掛ける会社だ。今でこそインキュベーター、アクセラレーター、コワーキンスペースはよく知られているが、当時としては日本では極めて新しく、そういった意味でUpstairsは草分け的存在だろう。

 ちなみに、Upstairsを立ち上げた山中氏以外の2人の経歴も大変面白い。1人は金子陽三氏で、現在は「ユナイテッド」というモバイル広告会社の社長COO(最高執行責任者)を務めている。ユナイテッドは、2006年に東証マザーズに上場している。もう1人は、当時まだ学生だった有安伸宏氏で、2007年に、個人コーチのサイト「サイタ」を運営する「コーチ・ユナイテッド」という会社を起業。2013年には同社の全株式をクックパッドに売却している。

 山中氏は、「今振り返ってみると、本当にスーパーな人たちとの巡りあわせがあった」と当時を懐かしんだ。

 ただ、やはりモノづくりを続けたかった山中氏は、いったんUpstairsを離れた。そして、経済産業省が2000年度から開始した「未踏ソフトウェア創造事業」(現在はIPA(情報処理推進機構)が「未踏IT人材発掘・育成事業」として実施している)に採択されたプロジェクトで、1年ほどソフトウェア開発の仕事に携わった。

 そのころは、ジャストシステムが販売するワープロソフトの「一太郎」が、Microsoftの「Word」で置き換えられ、日本のSNSの“走り”であった「Mixi(ミクシィ)」がFacebookに取って代わられるという時代だった。山中氏は、米国/シリコンバレーの技術が日本の技術を置き換えていった現実を見て、「やはり自分の行くべき場所はシリコンバレーだ」と強く思ったという。

 そこで2003年ごろ、同じ「未踏ソフトウェア創造事業」発の「ルナスケープ」というブラウザ会社の米国法人を立ち上げる目的でシリコンバレーに渡米。ところが、その会社から米国での就労ビザが出ないことになり、また、会社と自分のプロダクトへの考え方が合わなかったということもあって、彼は結局自分が日本に持っていた法人を使ってB-1ビザ(短期商用ビザ)やF-1ビザ(学生ビザ)を活用してシリコンバレーでの滞在を続けたのである。

 2008年ごろには、ある日系企業からH-1ビザを取得し、それ以降、日米を行き来するようになっている。その後は、いろいろな経緯を経て、Googleと開発契約を行っているMobicaに移り、そこで新たなH-1ビザを取得した。

 Google ATAPのSOLIが完了したらどうするのか、と尋ねると、「また起業でもしたい」との答えが返ってきた。

 このように、自由に羽ばたいている日本人もいるのだ。

山中氏(左)と筆者。Googleのシリコンバレーキャンパスにて

 だが、山中氏のように「自由な発想で自分の夢を実現したい」という日本人は、他国、特に中国人やインド人に比べるとまだまだ圧倒的に少ないのではないだろうか。

 筆者は、日本の大学院でイノベーションや起業について学生たちに講義を行っているが、シリコンバレーの話を散々した後、「だからシリコンバレーに行ってみたいでしょう?」と聞くと、学生たちの答えはハッキリ二つに分かれる。一つは目を輝かして「絶対シリコンバレーに行きたいです」と答えるグループ。もう一つは「いいえ、別に」と答えるグループだ。「なぜ?」と聞くと「半年や1年シリコンバレーみたいなところに行ってしまうと、帰ってきた後で就活に困ってしまう(とお母さんに言われました)ので」という返事が返ってきて、絶句したこともある。

 どこで勉強しても、どこで働いても構わない。ただ、もっと世界に目を向ける若い人たちが出てくることを期待している。

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