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» 2020年01月31日 11時30分 公開

江端さんのDIY奮闘記 介護地獄に安らぎを与える“自力救済的IT”の作り方(4):見せろ! ラズパイ 〜実家の親を数値で「見える化」せよ (2/6)

[江端智一,EE Times Japan]

「ブラックボックス」な母

 さて、前回のコラム「見張れ! ラズパイ 〜実家の親を熱中症から救え」で、「私は「嫌なこと」に気がついてしまいました」と記載しました。年齢寿命は延びているのに、介護開始年齢は延びていないということです。

出典はこちら

 これは、大量虐殺型の伝染病や不治の病に対する医薬の発明の貢献が大きいですが、その他にも、2つの工学の発明も貢献しています。

 「ペースメーカー」と「胃ろう(造設)」というデバイスです。

 「ペースメーカー」とは、「強制的な心臓の再起動スイッチ」です。イメージとしては、体内に超小型のラズパイのようなコンピュータのようなもの*)を埋め込んでおいて、脈拍数が低下またはゼロになることを観測すると、心臓に電気ショックを与えるものです。

*)内部に電子回路や電池が入っている、直径5センチ前後の薄い円盤状をしたチタン合金

 「胃ろう」とは、チューブで胃に直接栄養を送り込むための穴のことです。胃ろうを作ると、栄養補給のための2つ目のルートが追加されることになります。

 「胃ろう」を作っても、口から食べることはできますが、高齢によって口から食べることができなくなる、または、誤嚥(ごえん)によって、食べ物が気管支、肺に入ること)が発生することが多くなります。

 実は、高齢者の死因に肺炎が多いのは、風邪やインフルエンザよりも、この誤嚥が原因なのです。

 私の母は、彼女自身の希望で、ペースメーカーと胃ろうの両方を施しています。

 私の母は、これといった病気はありませんが、痩せ細って、施設のベッドの上で寝た切り状態がずっと続いています。担当したお医者さんからは、「この2つのデバイスが、本人を生かしているだけ」と聞かされています。

 母に面会に行っても、私には母のしゃべっている内容が分かりません。音量不足と、内容が意味不明だからです。ですので、私が一方的に母に語りかけるだけです。そして、母がその内容を理解できているのかも分かりません ―― 完全なブラックボックスです

 2年ほど前に、母の「ペースメーカー」の電池交換を提案されました。ペースメーカーの電池の寿命は7年くらいだそうです(7年ってすごく長いなぁ、と思いました)。

 正直、私は、躊躇(ちゅうちょ)しましたが、担当者に「電池交換しなければ、即、死ぬよ」と言われたことと、電池交換をするだけ(装置を取り換えるわけではない)の痛みの少ない軽微な施術ということで、本人(母)と姉と相談して、電池交換を行うことになりました。

 そして、胃ろうも、4カ月に1回、胃ろう器具(ペグ)の交換が必要となります。

 私は4カ月ごとに年休を取って実家に帰省し、介護タクシー(車椅子ごと載せるタクシー)に同乗して、施設から病院までの往復の移動に付き合い、施術室から聞こえてくる母の(激痛の)悲鳴を確認しています。

 こういう日々の中では、『人間は何のために生きているか』という発想は出てきません。『生き[残る/残す]ために私が何をすべきか』で、頭の中は100%になります。

「入れ歯の破損」が命取りとなった父

 一方、小さな町工場の社長をやっていた父は、酒もタバコも一切やりませんでした(私が中学生の時に、父が過労で入院しましたが、父はその時にパタっとタバコを止めました)。

 そのおかげかどうかは不明ですが、父は高齢に伴う病気(糖尿病など)はありましたし、晩年は脚がもつれる程度で、病気とは無縁の日々を送っていました。

 父の認知症は深刻でしたが、介護サービスや私たち姉弟のアシストを受けながら、ペースメーカーや胃ろうとは無縁の日々を送っていました。

 それが理由かどうかは不明ですが、母とは対照的に、父の最期は、驚くほどあっけないものでした。

 父を死に追いやったのは、なんと「入れ歯の破損」でした。入れ歯が破損して、代替の入れ歯が完成するまでの、わずか1〜2週間に、勝負が決したのです(「負けた」ということです)。

 入れ歯の破損 → 食事内容の変更 → 食欲の減退 → 体力の減退 → と続き、入れ歯の交換後も、体力の減退によって食欲が回復しなくなりました(新しい入れ歯との相性が悪かった可能性もあります)。

 これが、冒頭の、「父が、ヘルパーさんに、無理矢理お粥を食べさせられている姿」の話につながるのです。

 その後、姉が付き添いで、カップ1杯の高カロリースープを摂取させようとしますが、1時間半かけても、その1杯が飲めなくなりました。高齢者の食欲の消失は、いったん発生すれば、あっという間に加速し、回復できない状態に至ってしまうのです。

 父は甘党でしたので、私は帰省する度に、柔らかい和菓子や洋菓子を父の座っている座椅子の近くのテーブルに置いておきましたが、2時間後、全く手が付けられていないそれらの菓子を、テーブルから下げることしかできませんでした。

 私には、「食べたくない父に、無理に食べさせる」ということが、どうしてもできなかったのです。

なぜ「死にまつわる話」は忌避されるのか

 人間が死に至る確率は100%です。私が知る得る限り、例外はありません。つまり、「死」は、食事や睡眠や排便と同様に、生きていく上で、確実に実施しなければならないイベントの一つですが、これに対する話題を語ることは、忌避されています。

 私の考え方は極端なのかもしれませんが ―― 「死は、起きてこないだけの睡眠」という考え方しており、死に関する会話を、意識して避けることはしていません。

 このような父親(私)の影響を受けてか、我が家での「死」に関する話題は、「おいしいケーキ屋のお勧めスイーツ」程度のノリでされています。

 さて、今回、「死」に関する会話を、人々が忌避したくなる理由について考えてみました。

 まあ、大体、「「死」に関する会話を忌避する理由」は、おおむね上記のこの4つのカテゴリーに入るかな、と思っています。どれももっともな理由だと思います。

 しかし、いずれの場合も「死」に関する話題を忌避する→さらに死に関する話題のネタがなくなる、という負のループが、「死」の話題から人々を遠ざけていると思います。

 この他、死に関することを軽々しく口にすることは、不謹慎で、無分別で、無節操で、非常識で、軽率である、という考え方もあります。

 しかし、このような考え方は、「死」の3つの側面をゴチャゴチャにしてしまっているようにも思えます。その3つとは、(1)死に至るプロセス、(2)死そのもの意味(または意義)、そして(3)死後のプロセスです。

 特に(3)は、現時点において、たった一つの証拠も証言もなく信じられている「宗教の脅迫プロトコル」の支配力が大きいように思えます(関連記事:「弱いままの人工知能 〜 “強いAI”を生み出すには「死の恐怖」が必要だ」。

 私の場合、「(2)の死の意義」とは「起床のない睡眠」であり、「(3)死後のプロセス」については、「死後は存在しない」と考えているので、「(1)死に至るプロセス」にしか興味がありません(特に、私の最大の興味は「無痛死」―― この一択です(後述します))。

 ともあれ、このような「死」に関する未整理でカオス状態な私たちの思考が、「死」に関する過剰なまでの忌避を生じさせ、その結果、次の2つの問題を発生させることになります。

 第1の問題は、前述した通り、他人、特に親について「死」について決定を下さねばならない時、または、他人、特に子どもに自分の「死」に関する手続きを依頼しなければならない時、何の準備もなく、全く何も思い付かない、ということです。

 第2の問題は、「死」に関する付随的な感情である「迷惑」という概念が発生することです。その「迷惑」の正体を明らかにすることから逃げて、その結果、「死」に真正面から向き合って考えることをやめてしまう、というものです。

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